文:服部慎一

宮崎勤元死刑囚、家族(父親、母親、妹2人)の現在!事件後の自宅の様子も

宮崎勉元死刑囚
画像:時事

1988年〜1989年にかけて発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件で、実行犯として逮捕され2008年6月17日に死刑が執行された宮崎勤元死刑囚。

宮崎元死刑囚の生い立ちや母親、父親、妹といった家族の現在はどのようになっているのでしょうか。

また、自宅の部屋の現在や最後の言葉についてもまとめています。

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東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の概要

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件は、1988年〜1989年にかけて発生した幼女4人を対象にしたとされる連続殺人事件で、犯行声明をメディアへ送ったり、遺族の家に被害者の骨を送りつけるなどの犯人の猟奇的な行動から、報道が加熱。

さらに、逮捕された宮崎勤元死刑囚がアニメや特撮好きだったことを受け、オタク文化やオタクという言葉自体が世に広まるきっかけにもなりました。

最初の事件が発生したのは1988年8月22日で、埼玉県入間市春日町で4歳の少女の行方が分からなくなり、10月3日には7歳の少女、12月9日には別の4歳の少女が相次いで行方不明となり、この少女は15日に埼玉県名栗村の林の中で遺体となって発見されます。

その後、最初に行方が分からなくなった4歳の少女の自宅前に、段ボール箱に入った少女の骨と歯が置かれ、朝日新聞本社には「今田勇子」という名前で犯行声明と少女の写真が郵送されました。

少女に関して犯人しか知りえない情報だったことから、犯行声明は犯人が送ったものと断定。

しかし、その後も東京都江東区にて5歳の女児が行方不明となり、その後遺体となって発見されるなど事件は発生し迷宮入りするかと思った矢先、東京都八王子市にてわいせつ事件を起こして宮崎勤元死刑囚が逮捕されます。

ちなみに、このわいせつ事件で宮崎元死刑囚を逮捕したのは実の父親です。

取り調べを進める中、江東区で行方不明となった5歳女児への殺害の関与を認め、裁判の結果2006年に死刑が確定。

2008年6月17日に東京拘置所にて死刑が執行されています。

宮崎勤元死刑囚の犯行動機とは?「死んだ祖父を蘇られる儀式」

宮崎勤元死刑囚の犯行動機については不可解な点が多いのも事実です。

というのも、裁判では多くを語らず、直接的な動機が判明する前に刑が執行されたからです。

また、「犯行は死んだ祖父を復活させるための儀式」とも語っており、母親や父親といった両親からの愛情を受けて育ってこなかったからこそ、祖父の死は強烈な孤独感をもたらした可能性があります。

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宮崎勉元死刑囚の生い立ち!先天性の病気で障害を持っていた

1962年8月21日、現在の東京都あきる野市小和田に生まれた宮崎勤元死刑囚。

父親は当時の秋川市と五日市町で発行されていたコミュニティ新聞「秋川新聞」を経営しており、家系は裕福だったといいます。

地元では宮崎家は名士として知られており、曽祖父が村会議員、祖父が町会議員を務めるなど名高く、宮崎元死刑囚の実家には祖父、祖母、両親、妹2人の7人が暮らしていました。

祖父と住み込みで働いていた子守りの男性の手によって育てられた宮崎元死刑囚ですが、手のひらを上に向けることができないという先天性の障害を持っており、世間体を気にする母親はこの障害が世に広まることを恐れていました。

父親も仕事ばかりで家庭を顧みず、母親も姑との対立が理由で子育てに関与しなかったことを受け、宮崎元死刑囚は両親からの愛情を全く受けずに育ちます。

小学校から高校までは普通に学校に通っていた宮崎元死刑囚ですが、同級生からは「暗く目立たない少年だった」という証言が。

短期大学を経て印刷会社に就職するも、勤務態度がすこぶる悪く退職。

その後は実家の自室に篭る生活が続き、アニメの同人誌の発行やテレビアニメや特撮番組のビデオを複製し交換・収集するビデオサークルへ加入するなどの活動しますが、ここでも宮崎元死刑囚の態度が悪かったため仲間から嫌われており、同人誌の発行に至っては1回のみで終了しています。

孤独を感じた宮崎元死刑囚は、徐々にそのストレスの矛先を動物への虐待に向けていき、加虐するたびに快感を得るという体質に。

動物から徐々に人間へと対象が移り、1988年8月22日、自身の誕生日の翌日に事件を引き起こしたのです。

宮崎勉元死刑囚の病気や障害、両側先天性橈尺骨癒合とは?

宮崎勉元死刑囚は先天的に「両側先天性橈尺骨癒合」という病気を患っており、手首を回して手のひらを上に向けることができませんでした。

国立成育医療研究センターによれば、肘の近くで、前腕の橈骨と尺骨が癒合している状態のことを指し、男児に多いといいます。

一方で、医者からは手術しても成功する確率が低いと言われたため、両親は障害者のレッテルを貼られるのを避け、手術という選択をしませんでした。

この選択が影響し、周囲からはバカにされるようになり、特殊な病気なため先生らも対応しなかったといいます。

後に、宮崎元死刑囚は「障害によって周囲からバカにされるのが嫌だった」とも語っています。

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宮崎勤元死刑囚の家族構成!父親・母親、妹2人の現在とは?

前述をしましたが、宮崎勉元死刑囚は祖父、祖母、両親、妹2人の計7人と東京都西多摩郡五日市町小和田にて暮らしていました。

ちなみに、現在はあきる野市となっています。

宮崎勤元死刑囚の父親の事件後と現在の生活

事件が発生してから、宮崎元死刑囚の家族の元にも脅迫や嫌がらせ等が続き、父親は実家の「秋川新聞」やその土地を売却。

その後、そのお金で遺族らに損害賠償を支払った後に、東京都青梅市を流れる多摩川にかかる神代橋にて30mの高さから投身自殺をしています。

宮崎勤元死刑囚の母親の事件後と現在の生活

元々、宮崎勤元死刑囚の母親は息子に愛情を注いでおらず、事件後も父親のように責任感からくる自殺などはしていません。

2008年6月に宮崎元死刑囚の刑が執行されたのち、遺体の処理をどうするか尋ねられた母親は「拘置所にお任せします」とだけ答えており、現在の住まいなどは不明です。

宮崎勤元死刑囚の妹①(長女)の事件後と現在の生活

宮崎勤元死刑囚の妹ですが、事件後には世間からの風当たりが強くなり勤務先の会社を退職。

さらに、結婚も決まっていたようですがその話もなくなり、婚約破棄にまで追い込まれています。

宮崎勤元死刑囚の妹②(次女)、事件後と現在

2人目の妹は事件当時、看護学校に在籍をしていましたが、自主的に退学をしており、その後どのような人生を歩んでいたのかは不明です。

地元の名士だった宮崎家。

土地などを売却して損害賠償を支払うことは完了しましたが、事件の影響は家族以外にも。

父親の弟は5つの会社で役員を務めていましたが、事件の影響により全て辞職。

また、さらにその下の父親の弟には娘が2人いましたが、今後の人生で「宮崎姓」を名乗るリスクを考慮し、離婚の上娘2人を妻に引き取らせています。

宮崎元死刑囚の母親には兄が2人おり、その息子は警察官や高校教師を務めていましたが、この2人も週刊誌によって関係性が暴露されたため辞職に追い込まれています。

こうした宮崎一族に訪れる悲劇に耐えきれなくなった宮崎元死刑囚の父親は、「直接関係の無い一族までが非難され仕事を失うことになったことに悩んでいる」との言葉を残し自殺をしています。

宮崎元死刑囚、実家と部屋の現在は?発した最後の言葉とは?

宮崎勉元死刑囚

実家の様子 画像:時事

(※宮崎勤元死刑囚の当時の実家の様子)

事件が発生した直後、宮崎勤元死刑囚の実家には家宅捜索が入り、部屋からはおよそ6,000本程のビデオテープが押収されたといいます。

実家も土地も売却されたため住む人がいなくなった実家は解体され、更地に。

その後、土地は売りに出されており有料駐車場となっていましたが、現在は小和田自治会が管理する「和み広場」となっています。

宮崎勤元死刑囚の実家の跡地である「和み広場」ですが、昨年10月にはトレイルランニングを主としたイベント「グリーンフェスティバル」の集合場所として指定されるなど、現在では地元の方々の地域交流の場として活用されています。

ちなみに死刑執行の朝、宮崎元死刑囚は「あのビデオ、まだ途中だったのにな…」という言葉を残しこの世を去っています。

(文:服部慎一)